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No499-03/08 01:06
男/PON@ダイナマイト
PC-83AFDosV
慌てたのは薩長。せっかく今までの対立を水に流して倒幕のために同盟を結んだというのに、幕府(実質は龍馬)に先手を打たれ、倒幕、すなわち打倒・徳川家への名目を失ってしまいました。
このままでは、新政権が誕生しても、徳川家主導のままである事は変わらず、今までの活動がすべて水の泡になってしまう。それだけは何としても譲れない倒幕派は、朝廷を武力で制圧。実権を握った倒幕派は、新政権の要職を自分たちで固め、徳川家(つまり慶喜)をそこから締め出しました。
No498-03/08 01:06
男/PON@ダイナマイト
PC-83AFDosV
これを幕府が採用したのは、政権を朝廷に返還しても、国内最大の勢力を持つ徳川家が、結果として朝廷中心の新政権の中でも中心になるはずだ、という見通しがあったためでした。
この幕府による政権の返上が、「大政奉還」。これによって、300年に及ぶ徳川幕府体制は終焉を迎えました。
このタイミングは、維新史全体を通じてもっとも劇的な瞬間といっていいでしょう。なぜなら、大政奉還を朝廷に申し出たちょうどこの日が、薩長が企図した、朝廷から薩長に対して倒幕の勅令を出させた日だったのです。
No496-03/08 01:04
男/PON@ダイナマイト
PC-83AFDosV
薩長と幕府とが全面戦争するのをやめさせるにはどうすればよいか。龍馬は策を練ります。そして考え出された一策が土佐藩によって幕府に持ち込まれ、状況が激変します。
この龍馬の作戦は、海援隊の活動中に船の中で案出されたということから、「船中八策」と言われます。その内容は、幕府が諸大名の統治権、すなわち政権を朝廷に返還する、というものでした。つまり、幕府が自ら政権を返上し、一大名に戻ることで、「幕府による統治を打倒する」という薩長の武力倒幕主義を根本から覆してしまうのが狙いだったのです
No495-03/08 01:04
男/PON@ダイナマイト
PC-83AFDosV
同盟した薩長は明治帝の側近を掌握していよいよ本格的な倒幕計画をへ。が、これを喜ばなかったのが土佐藩。薩長主導で革命が成功しては、土佐藩の立場がなくなってしまう。この危機感は、会薩同盟に至る薩摩と同じ。
そこで、土佐藩はいまや押しも押されぬ要人となった坂本龍馬を土佐藩に戻す工作を開始。武力革命に疑問を持っていた龍馬は、薩長と幕府が軍事的に衝突するのを回避させるため、土佐藩に戻って活動することに。龍馬は亀山社中を土佐藩の指揮下に編入させ、名前を「海援隊」と改めました。
No494-03/08 01:02
男/PON@ダイナマイト
PC-83AFDosV
ここはちょっと解説。
孝明帝、自分が政治をするつもりはさらさらなく、幕府が日本を治めるのがあたりまえだと思ってました。
倒幕派が勤皇って言ってたのは、天皇を担ぎ出すことで幕府に政治的な圧力をかけるためだったのね。でも天皇自身は佐幕派。
その孝明帝が崩御してまだ10代の明治天皇が即位したっていうのは、倒幕派にとってこれ以上ないチャンスだったわけです。
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