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[18歳以上入場]
No105-07/10 16:12
男/通行中
P900i-v9Ywv99m
中途半端ではない愛情というものを誰が決めるのでしょうか。
どのように決めるのでしょうか。
それは個々の状況によって、接する側、受ける側によって違ってくるものでしょう。
そういった目に見えないものを定義付けるのは難しいように思えます。
No104-07/10 16:06
男/通行中
P900i-v9Ywv99m
関西における被害者・加害者対話センターのようなものは賛成ですが、それでも、被害者、被害者の家族は加害者を恐がり、仕返しを恐がり、会おうとしないことが多々あります。
また、関与したくないという被害者も多数います。
その問題はどう解決していくでしょうか。
被害者、被害者の家族が憎しみをもって接してくれればあの少年はもう二度と犯罪を起こしませんと説明しますか?
それで被害者は納得するでしょうか。
被害者、被害者の家族を会わせるだけで少年が二度と犯罪を起こさないのであれば、それこそ性善説であるかのように思えます。
No103-07/10 15:43
男/梨元
SA31-2P8k3c3Q
自尊心ですか。人間を人間として生きる人間独特の防衛本能ですね。

厳し過ぎる躾をしたから動物がなつかないのでは無く、中途半端な愛情や愛玩の気持ちで厳しく躾るから、動物も相手を舐めて反発するのです。

徹底的な躾をしたら反発する気すら失せて従順になる筈です。

単的に言えば、自分のしでかした事で、この世で一番自分を憎む家族に直に会わせて、恐怖と後悔のトラウマを本人に負わせるのが一番の躾だと思うのですが。

なぜ最高の更正する材料があるのに活用しないのか不思議です

恐縮です。
No102-07/10 15:31
男/通行中
P900i-v9Ywv99m
人間は性質的に善であるから保護するのではなく、躾け、つまり、生きていく知恵を教えることを含めた保護が必要だから保護するのではないでしょうか。
他の動物であっても、保護せず放置しておけば死んでいく動物は多く存在します。
特に、人間は生物学的に他の動物に比べ一人で生きていく力を身につけるまでが長い動物です。
ゆえに長い目で保護する必要もあるのではないでしょうか。
過保護は他の動物と同じように、仲間と生きていくのに支障をきたす場合があるでしょうが。
No101-07/10 14:47
男/通行中
P900i-v9Ywv99m
鼻をすりつけさせて躾けても納得できない少年もいると思います。
更に過酷な躾では、動物がなつかないように、少年もなつくことはないでしょう。
そこには人間の動物としての自尊心も存在するでしょう。
そして、人間は動物に対しては言葉で理解させることはほとんどできませんが、人間に対しては複雑な言葉で話し合うことができます。
人間としての言葉、複雑な感情を使い、ともに成長していくことが人間としての自然のあるべき姿のように思います。
犬は犬らしく、猫は猫らしく、人間は人間らしく生きるべきではないでしょうか。
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