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≫☆入口☆≪
No225-01/25 09:51
男/通行中
P900i-v9Ywv99m
わたしたちは法の安定性を維持するすることが理に適っていると考え、実定法と既存の権利に従いながら過ごしています。
しかし、既存の法、既存の権利以外に今もまだ見落とされているはずの権利、過去において存在したことのない権利に目を向けた場合、極端に言うなれば法システムの限界に価値を見出だそうとする場合(できればの話ですが)、死刑制度という概念がなくなることを私は望みます。
死刑制度がもたらす恩恵(と呼べるか分かりませんが)もあるとは思いますが、死刑制度という概念がない生活を受ける権利があるならば私はそれを望みます。
No224-01/25 08:29
男/アップル
P900i-ZnvKa5MW
死刑は人が人の作った法に照らし合わせ人の命を奪う行為だが、死刑は抑止力となるべき最高刑であると思う。その行為を落とし前とするなら、刑罰はなんの為に存在するのでしょう?罪は罰により昇華され、本人は罪の意識と罰の重さにより更正されると思う。しかし先に述べた人と呼ぶには相応しくない行為をした者を生かす価値がどれほどの意味があるのだろうか?社会に生かす意味はさほど重要ではないと思う。ならば同じ労力で倫理、道徳を学ばせる方が重要だと私は思う。
No223-01/25 04:18
男/遼
PC-Wes2Eu8Z
死刑に反対の人達。
では罪を重ねる犯罪者はどうするのか。
彼等は『命の重さ』をわかっているのか?いや、わかっていない。そういう概念を受け入れようともしない。
一生牢獄で養えというか?それとも、懲りずに世間にだし、また新たな犯罪を犯させるのか?
No222-01/25 04:14
男/遼
PC-hqMTQAgC
ピエロは考えてるようだがイマイチ矛盾している。
『命の重さ』は可変する。感情論だ。
我々大衆がこの『秩序』の中で『法』を基準として生きている中では『命は重い』かもしれない。
イラクのスンナ派組織。彼等の『秩序』では『命の重さ』よりも『自分達の宗教に見合わないことは阻止する』方が重要視される。命の方が軽いってことだ。
No221-01/25 03:03
男/ピエロ
P2102V-sFMRCQ39
理性や知識が無かったら殺したい!だが同じ犯罪を二度と繰り返さない為には遺族や事件を知った人達の『何故殺さない?』と考える疑問が必要!その犯罪を一人一人が忘れない事が抑止力と考えて欲しい!あの残忍な地下鉄サリン事件の松本被告が死刑にならないのも理由がある様に犠牲者の遺族には納得いかない判決が下されるのが現実…松本被告の場合アレフ団体に因る第二のテロや本人の精神障害等も考えられ判決は難航している…。
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